Mag-log in午後七時、天城財団美術館グランドボールルーム。巨大なクリスタルシャンデリアのまばゆい黄金が、大理石のホール全体を燦然と染めている。財団創立三十周年記念VIPガラ。政財界の最上層と海外ラグジュアリーブランドのアンバサダー、有力文化人三百余名が集う社交界最大の夜だった。弦楽四重奏の優雅な旋律が流れるホールの中央へ、二人が並んで姿を現す。会場の視線が一瞬そこに集まり、低い感嘆が漏れた。財団統括理事・天城泰輝。完璧な体型に合わせて裁ったクラシックブラックのタキシードと蝶ネクタイ、額をはっきり見せた黒髪が、傲慢な貴公子の威厳を完成させていた。その傍らに立つ主任学芸員・神崎絵奈。いつもの黒縁眼鏡と無骨なオフィスーツの代わりに、背を涼しく開けたディープネイビーのシルクバックレスを着ている。二人の息を呑むビジュアルは、それ自体が一幅の名画のようだった。泰輝の濃い視線が、絵奈の開いた背と優雅な鎖骨のラインをゆっくり辿り下りる。濃紺のシルクが体の起伏に沿って官能的に流れ、歩くたび細い脚線が危うく覗く。乾いた唾を呑んだ。喉仏が大きく上下する。奇妙なことに、単なる視覚の感嘆を超えた内密で粘つく渇きが、胸の奥で蠢いた。絵奈も泰輝の完璧なタキシードのフィットを横目に見、唇をじっと噛む。傲慢で潔癖な暴君だったが、広い肩と高い身長から噴き出す威圧的な男らしさは、否定できない現実だった。だがその華やかなショーウィンドウの裏側で、二人は薄氷の上を歩いていた。挨拶を交わすあいだ、間隔は七メートルまで開いていた。『これ以上離れてはいけない。このあたりで合わせなければ』絵奈はシャンパンを持ち、泰輝と微かに歩幅を合わせ、心の中で数字を数えた。会場の人々と挨拶しながらも、十メートルという見えない輪は一秒も緩まない。そのとき、絵奈の背中へ、ねっとりした中年男の声が食い込んだ。「神崎主任、今夜は目が眩むな。研究室に閉じこもっているには惜しい美貌だ」美術館の次期館長の座を狙い、事あるごとに絵奈を貶めてきた副館長・瀬戸常務だった。開いた肩のほうへ、そ知らぬ顔で手を伸ばし、嘲り混じりの笑みを浮かべる。「天城理事の後ろばかりくっ
――バン、バン。ゲストルーム浴室の扉を壊すように叩いていた泰輝の手が止まった瞬間、鍵がカチリと外れ、扉が勢いよく開いた。白い湯気の向こうに、白いテリーのバスローブを胸元まで強く押さえた絵奈が立つ。水滴のついた鎖骨と、赤く上気した頰。乱れた濡れた髪をかき上げ、毒を含んだ目で泰輝を睨んだ。「扉を壊すほどのことですか。洗い終わって出るところでしたよ」だが泰輝に、その鋭い抗弁など聞こえない。濡れた首筋を見てから、自分の前へ視線を落とす。薔薇の蒸気が鼻先を掠めたが、神経は沈まない熱にばかり向いていた。「……協調覚書、第二条」掠れた声が歯の隙間から漏れる。「シャワー事前承認のルールを破るとどうなるか、その目でよく見ろ」顎で自分の前を示した。スーツのジッパーが裂けそうに大きく盛り上がった前が、絵奈の目にそのまま入る。耳たぶが破裂しそうに赤く染まった。「理事が昼にスクワットで私の脚を折ろうとしなければ、こんなことありませんでした!」「神崎絵奈、言い訳するな。お前がタオルで体を拭くたび、俺の肌が剥がれるようだった」枠を支え、荒い息をつき、顎を震わせる。絵奈の手がガウンの内側を整えるたび、亀頭の先を羽根でくすぐるようなひどい微熱が背骨を走った。敷居一枚を隔てた言い争いがすぐ終わるはずもなく、どうにか各自の部屋へ戻ったあとも眠れず、相手が動くたび神経を逆立たせた。***出勤のエレベーター鏡に映った絵奈の頰にはまだ赤い気配が残り、泰輝の眉間は石のように固まっていた。「今日は失敗できない。動く前に言え。俺も予定が変わればすぐ知らせる」冷たい警告に絵奈はそっけなく顔を背けたが、近い距離から伝わる重い体温に、何度も首筋がくすぐった。その日午前十時、天城財団美術館。財団三十周年VIPガラ開幕まであと九時間。展示ロビーは最終点検で足の踏み場もない。主任学芸員の絵奈は分厚いチェックリストを抱え、東奔西走していた。問題は館の構造だった。地下二階の特殊収蔵庫、一階メインホール、
午後八時、広尾のペントハウス。殺伐としたオフィスバトルを終えて戻った室内には、息が詰まる薄氷の緊張が漂っていた。泰輝のひどいスクワット報復のせいで、絵奈は午後中ずっと太腿が重く締まる筋肉痛に耐えていた。泰輝も、絵奈が退勤直前に書類をステープラーで綴じるたび指先を抓むささやかな反撃のせいで、帰宅してからも神経が逆立っていた。「先に洗います」絵奈がゲストルームの扉を開け、そっけなく吐き捨てた。ソファに腰を下ろし、タブレットで海外支社の報告を繰っていた泰輝が、冷たく顔を上げる。「覚書第二条は忘れたか。始める前に、互いが平気か確認すると決めたはずだ。今すぐ、とだけ投げて入るつもりか」「一日中汗をかいて埃をかぶって、シャワーまで決裁が要るんですか。十五分で終わらせます。構わないでください」返事も待たず、浴室の扉を強く閉めて鍵をかけた。昼に受けたスクワットの屈辱を思えば、どんな配慮もしたくなかった。汗に濡れたブラウスとスカートを脱ぎ捨て、シャワーブースへ入る。温かい湯が落ち、重たかった肩と太腿の筋を柔らかく弛める。ボディスポンジに薔薇のボディウォッシュをたっぷり出し、豊かな泡を立てた。白い柔らかい泡を、首筋と鎖骨、胸、そして太腿の内側の内密な肌へ滑らせるように擦り始める。泰輝はリビングの全面ガラスの向こうの夜景を背に座り、タブレットへ視線を固定していた。だが昼のスクワットの後遺症で下半身はまだ鈍い疲労に浸り、絵奈との気の張り合いで神経は逆立つだけ逆立っていた。『十五分で終わらせる、だと』時計を確認する。十五分という言葉を覚えておき、タブレットへ目を戻した。ブースから水が落ちる音が、リビングまで微かに響いている。雑念を払い、英文契約の条項を読もうとした。だがまさにその瞬間、リビングの冷たい空気が一瞬で蒸発するように、全身へ熱く湿った熱が押し寄せた。ソファに座っていた泰輝の手から、タブレットが床へ乱暴に落ちる。――ドン。「……くッ!?」押し殺した猛烈な嘆きが漏れた。いきなり全身の感覚神経が、煮えたぎる湯にどっぷり浸か
昼を過ぎた午後一時、美術館地下一階の特別企画展示室。絵奈は作業用ガウンを着て、大型油彩の設置位置を確認していた。傍らのドセントたちも動線を眺め、作業を見守る。「三番壁面のルネサンス、左へ二センチだけ動かしてください。水平も一緒に。私が上がってワイヤーの張力を見ます」二メートルのアルミ梯子を慎重に登った。午前の氷缶テロのあと、泰輝が応接室を飛び出し給湯室を襲ったときには、すでに絵奈はいなかった。咳払いとともに伝わってきた冷たい殺気を思い出し、絵奈は心の中で快哉を叫んだ。『傲慢な財閥三世なら何でも許される? 私を下女扱いして』梯子の頂上で両手を伸ばし、重い額縁を支えていたまさにその瞬間。壁一枚を隔てた地下一階VIP専用フィットネス。展示室との距離は七メートルほど。ジャージ姿の天城泰輝が巨大なスクワットラックの前に一人で立っていた。肩の上には鉄のオリンピックバー、両脇には巨大なプレートがびっしり。総重量百四十キロ。「神崎絵奈。よくも俺のズボンに紅茶を零させたな」口角が殺伐とした弧を描き、残酷に上がる。「その体で、代償を骨の髄まで味わえ」深く息を吸い、百四十キロの鉄塊を背負ったまま深くフルスクワットで沈み込んだ。大腿四頭筋と臀筋、ハムストリングが裂けるほどぴんと収縮し、下半身全体に途方もない荷重がのしかかる。その殺人的な筋肉の悲鳴が、そのまま絵奈の体へ直撃弾のように飛び込む。――ドン。「あ、あっ……!?」梯子の上で額縁を掴んでいた絵奈の口から、裂ける悲鳴が漏れた。一秒の前触れもない。いきなり両太腿に巨大な鉄塊を載せて押し潰すような猛烈な荷重が、骨盤と膝関節を容赦なく折った。脚の筋が一斉に麻痺し、小刻みに震え始める。「神崎さん!?」「梯子が揺れてます! 気をつけて!」下にいたドセントたちが梯子を支え、驚愕の声を上げた。だが絵奈に答える余裕はない。下腹と太腿の内側が引き裂かれるようなひどい筋肉痛が嵐のように押し寄せる。一、二、三……。泰輝
午前十一時、天城財団美術館二階のVIP応接室。統括理事・天城泰輝は、主要スポンサー企業の代表と海外パートナーの幹部四名とともに、ガラのスポンサード調整ミーティングを主宰していた。「今回の財団三十周年特別展は、アジア美術界でも類を見ないメガイベントになります。スポンサーブランディングも最高等級の礼遇で……」流麗な話術と冷たいカリスマで一座を完璧に圧していた。テーブル向かいのスイス系プライベートバンク日本支社長は、何度も頷き、感嘆を連発する。「さすが天城の次期当主だ。理事の卓越した審美眼と攻撃的な企画力なら、今回のガラは成功を確信できます」「恐縮です、支社長。今回のプロジェクトは単なる展示を超え、東西の古代芸術の精髄を社交界へ示す場になります」相手が頷くのを見て言葉を継いだ。口元の笑みと裏腹に、肩の力はなかなか抜けない。朝から絵奈と交わした言葉が、会議の最中にもふと浮かぶ。テーブルの上には英国王室御用達ブランドの高級磁器カップと、湯気を立てるアールグレイが置かれていた。***同じ時刻、応接室の真下。一階下の学芸室給湯室。絵奈はシンクの前に立ち、天井を険しく見上げていた。朝から一分単位で小言を浴びせ、罪人を監視するように傲慢に振る舞った泰輝の態度が頭を離れない。「自分が何様よ。準備は五分でしろ、息も慎重にしろ。人を何だと思ってるの」歯を噛み、冷蔵庫を開けた。視線が冷凍室の隅に置かれたアルミ缶コーヒーの一つに釘付けになる。白い霜がついた、カチカチに凍った缶。瞬間、絵奈の頭に稲妻のように悪魔じみた着想が走った。『事前承認なき刺激は禁止、だって?』缶を握った手を見下ろす。一瞬迷った指が、冷たい表面を再び包んだ。『大企業の後継者の体面がどれほど大したものか、見せてもらおうか』缶を手放さなかった。短い迷いを切り、薄いHラインスカートの裾をそっとまくり上げる。白く滑らかな太腿のいちばん内側、肌がいちばん柔く敏感な付け根あたりへ、凍りついた缶の冷たい底を一気に押し当てた。――チイイイッ。
日付を越えた、広尾の最高級ペントハウス。都心の騒音が完全に遮断された室内に漂うのは、窓を打つ冷たい夜風だけだった。複層階段の下、マスタールームとゲストルームの直線距離はおよそ六メートル。壁一枚を隔てた安全圏の内側だったが、絵奈はベッドに横たわり、一秒も目を閉じられなかった。「はあ……本当に頭がおかしくなりそう」綿の寝間着を首まで閉め、寝返りを打つ。先の解除試みの逆流反動で感度がさらにになった体は、些細な刺激にも過敏に反応した。さらに悍ましいのは、六メートル向こうの壁の内側から伝わってくる、泰輝の仄かな体温と呼吸の波動だった。彼がベッドの上で長い脚を伸ばし、シートを擦るたび、薄い綿のズボンが絵奈の太腿の内側を荒く掻くような錯覚がする。――するり、さわり。「んっ……」反射的に脚を閉じ、唇を噛んだ。まさにその刹那。――コン、コン。二つの部屋を隔てるコンクリートの向こうから、神経質なノックが響いた。「神崎」壁を伝ってきた声はひどく沈んでいた。「寝返りを打つな。大人しく寝ていろ。お前が脚をねじるたび、俺の太腿の内側に火がつく」絵奈は呆れて跳ね起き、壁へ食ってかかった。「寝相まで理事の許可が要るんですか。今、息まで慎重にしていますよ」「俺も動かない。少し我慢しろ。明日までに回す監査企画案が残っている」「その潔癖、本当に……」絵奈は枕に顔を埋め、荒い息をついた。互いの神経が一つに縛られているせいで、怒りも緊張も血管を伝ってリアルタイムで交換される。マットレスの柔らかささえ異質で、落ち着かない。天井を見上げ、掌で額を押さえた。普段なら静かなクラシックを流して一日の疲れを解くところだが、今はどんな些細な音も動きも慎重にならざるを得ない。壁の向こう、六メートル。その狭い間隔で泰輝が息を吸い、吐くたび、空気の圧力が自分の胸郭を軽く押しつけるような同期の残像がする。書類をめくり、ベッドで姿勢を変えるたび、スプリ